奈良県の一級建築士事務所 (建築設計事務所) 中尾克治建築設計室のブログ 建築設計監理・家具デザイン・庭園デザイン


by knaw
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

“きよし”と“キヨシ”を読み解くヒント(その2)

WEBサイトのコンテンツ“[建築雑学]建築家に恋して”の論考 きよしとキヨシ “違いがわかる男”と“早すぎた求道者”それぞれのモダニズム Vol.2 を補足する内容です。
一読くださいませ!

*1)清家は1941年3月、東京美術学校を卒業した後、父親の薦めもあって
東京工業大学へ進学する。ここで谷口吉郎、小林政一、前田松韻、藤岡通夫、
谷口忠、後藤一雄らの教授陣に師事する。当時は助教授だった谷口吉郎に
デザイン教育を受けたという。卒業後、海軍を経て東京工大に助手として
1946年に就任。翌年には谷口設計の藤村記念館の設計をサポートするなど
ちかい関係にあった。清家の名を一躍有名にした、森博士の家はもともと施主が
親交のあった谷口教授に設計を依頼したところ、事情あって助教授だった
清家を紹介したことに始まる。

*2)清家研究室は東京工業大学での清家の研究室で、この研究室に学んだ
人の中には林昌二、山田雅子(後の林雅子)、篠原一男など、後の建築界を
支える次ぎの世代を多く輩出している。(そうそうたるメンバーである!)
研究室では、常に清家の冗談が飛び交っていたといい、しばしば猥談も混じるのが
特徴だったらしい。まじめな話で行くと、研究室での清家は構造に対する取組みが
明確で、たとえ小さな住宅でも骨格は建築として本格的な構造システムであるべき
という思想だった。清家が構造に明るかった理由にはふたつあり、ひとつは海軍で
格納庫など大規模構造物に係った事、もうひとつは後藤一雄など構造デザイナー
との付き合いに恵まれたことと弟子である林昌二は振り返っている。
研究室で学んだ次世代は当然の如くそのエッセンスを引継いでいくことになる。

*3)別冊新建築「清家清」に収録されている、-清家清-わが軌跡を語る 生い立ち
から東京工業大学に戻るまで- で清家自身が回想しているが、中学時代、図画の
先生が進学指導で美術学校進学を薦めてくれた。清家自身も絵が好きで二科系の
先生に水彩画を習ってもいた。まんざらでもなく美校へ進む事を意識していたが、
厳格な工学博士の父が絵描きになることなど賛成しなかったので、美校の中でも
純粋芸術ではない建築科ならどうかということで許しを得て、進学することになったという。
父としてはすこしでも堅気の職業についてほしかった。美校を卒えてから東京工大に
進むのも父の助言による。清家自身も徴兵を免れるためなど、いろいろと魂胆が
あったようだが、跡取り息子を想う父とその親を気遣う孝行息子の温かいエピソードである。

*4)東京藝術大学のバウハウスとの接点は、まず水谷武彦と山脇巌のバウハウス
留学に始まる。石本喜久治らが初めてバウハウスを訪問したのが1922年。
以来見学者こそいたものの、日本の建築界からバウハウスを留学したのは当時、
両氏以外にはいない。(山脇の妻・道子も同じく留学しているがデザイナーであり
建築界からの留学とは言えない)水谷は1927年から1929年まで留学し、
ハンネス・マイヤーの指導を受けている。留学生第1号である。美校卒業後、
建築科助教授のときに岡田信一郎教授が最新の建築思想を体得せよと送り込んだ。
帰国後、藝大建築科で教育にあたる。その後の教え子に吉田五十八や吉村順三
らがいた。(清家は吉村の卒業後、5年のちに入学しており、水谷の直接指導も
受けている。)1926年に美校を卒業した山脇(当時は藤田巌)は、1928年に
山脇道子と結婚。山脇家の養子となり、1930年、夫婦そろって渡独、バウハウスに
入学する。巌は建築課程でミース・ファン・デル・ローエの指導を受ける。
藝大で教鞭を執る事は無かったが、帝国美術学校(現・武蔵野美大)や日大
芸術学部で教授を務めている。バウハウスの教育スタイルを体得してきた水谷の
指導法は明らかに岡田らとは隔たりがあったようだ。
吉村順三は卒業設計に小住宅を選び、乾式パネル工法による新しい住宅の
スタンダードを提示しており、そこには明らかにバウハウスの影響がみてとれたという。
当時の思潮としてちいさな住宅の設計を卒業制作とは認められないという教官が
多かったというが、水谷は吉村の設計と姿勢を最後まで支持した結果、吉村は
卒業できたと言われている。

*5)清家は建築家として晩年、札幌で市立高等専門学校の創立に尽力し、
自ら初代校長として1991年から1997年までデザイン教育の礎を築いた。
その学び舎は自らが設計した校舎だった。この学校で清家はバウハウスの
DNAや精神を移植する覚悟であったに違いない。

札幌市立高等専門学校(現・札幌市立大学デザイン学部)
一段高い起伏の多い傾斜地には一般教育棟、アトリエや工房をもつ専門教育棟、
研究所、その他諸々の学校施設を設けた。各施設はスカイウェイと呼ばれるギャラリーで
結ばれている。ギャラリーは冬季、積雪6mに達する各施設を結ぶ回廊であり、
また文字通り学生、教官の作品展示空間となっている。このギャラリーの床レベルが
傾斜地に建つ施設群の基準レベルとなり、上下1層に全ての部屋が配置されている。
(『建築家・清家清』より引用=初出・『新建築』9602号)
この学校の設立前、札幌市は既に学校施設の基本計画を描いていて、そのまま
進めたかったようだが、清家は、それではデザインの教科書を他人に書かせた
ようなもので理想的な教育環境にならないと断固反対し、校長就任の話まで
固辞すると言い張ったという。誤解を恐れずにいうと市側は有名建築家の「清家清」と
いう看板だけがほしかったのであったと思う。そのような形式だけの教育を清家が
許すわけが無い。本物の教育者であった清家はグロピウスが自らバウハウスの
校舎を設計したように、自らのコンセプトでキャンパスの計画に挑んだのである。

c0175075_0191836.jpg

エントランス棟正面、中央にエントランスホール、右側が体育館、左側が図書館に
なっている。縦に伸びる2本の塔は階段室とEVシャフト。
スカイウェイへと繋がる。

c0175075_0194466.jpg

スカイウェイは山の中から飛び出してきたかのように
一直線に伸び、文字通り空へと繋がる道のようである。
アクロバットなことを好んだ清家の真骨頂で、ここばかりが
クローズアップされるが。土地の文脈を読み、大きな造成を
加えることなく、周辺環境に配慮された建築でもある。


札幌へ訪れた時、この学校が見たくて見学を申し出たが先方とのタイミングが合わず、
結局外観のみの見学となった。いつの日か晩年の清家清がマスタープランした
この学校建築をなめまわすようになでまわすようにじっくり見てみたいものだ。
by knaw | 2010-01-25 00:29 | ♪お気に入りあれこれ